くすり、と気づかれないように微笑む。

何なのかな
この満たされる感じ。
この癒される感じ。




 諦めの悪い日



「新八」


そう囁けば
一呼吸、空気が止まって
彼は横目でちらり、と俺を見た。

俺を見抜く顔。

何企んでんだよって。
窺うような視線に
俺はめいっぱい微笑んでみせた。

すると案の定、眉間にしわを寄せて
不可解だとでも言いたげな顔。


でも

今日はどうかな。
さすがの新八っつぁんでも、見抜けないんじゃないかな。




「しんぱち」


一字ずつ、その音を噛み締めるように呟くと、
唇の端が痙攣した。

どうしたのだろう。
こんなに満たされているっていうのに
変だよね。
笑えないこともあるんだ。

俺の顔、強張っていたりしてね。



「笑えてない」


彼は神妙な顔でそう言った。

ああ、やっぱり。
いつもの呼び名とは違くて
新八、なんて呼んでみたりしたからかな。

かしこまって
不自然に、作ったように
まるでわざとしているみたいに。

そう、まるで、特別みたいにさ。



「新八」
「……」
「しんぱち……」
「……なんだよ」


急に思い立ったんだ。
ただ何となく、呼んでみたくなった。
ちゃんと名を呼んでみたかったんだ。

一度くらい、ね。

結構良いものじゃない?
声が掠れて枯れるまでさ。

大好きな人の名前を、呼べるなんて。



「、んぱち……」
「もう良い」
「しん……」
「バカみたいだ」



バカでも良いよ。

わざとでもバカなことしていないと、
気が狂れてしまいそうなんだ。

欲しくて欲しくて手に入れたものを手放すのって
きっと、こんな気持ちなんだと思う。

悲しいとか、つらいとかじゃなくて。
未練でもなくて。


そう、とても、残酷な感情だよね。




「……どうせ、最後なんだろう」


その顔を見れば
言いたくなかったであろうことが
明白。

ごめんね。
そんなことを言わせて。
最後なのに、泣かせたりして。

ぱたぱたと落ちる涙が
気づきたくなかった、と肩を震わせて



「なんで、普通にしてくれないんだ」
「新八っつぁん」
「せっかく堪えてんのに、なんでそんなこと言うんだよ」
「ごめんね、」
「最後まで、足掻いてんじゃねえよ」
「しんぱっつぁん、」
「捨てられたのは、俺だろう……!」


溢れ出して、止まらない。
痛みは増すばかりで、きっと何も止まらない。
何一つ癒えることもないまま、動き出した歯車を
必死になって押しているのかな?
止めようと足掻いているのかな?

痛々しかった。
言葉が想いが。空気も世界も。
まるで今まで止まっていたかのような幸せだった時間が、
気づいたように動き始めて、
そのぜんぶが、彼にのしかかっているような、
そんな重圧感。圧迫感。



「いい加減、前向けよ」
「……、」
「もう、俺のこと、見んな」
「でも、俺」
「聞きたくない」
「新八っつぁん」
「もうたくさんだよ」
「俺、大好きだよ。新八っつぁんが、いちばん好きなんだよ」


彼は、いつだって、俺のことを見てくれていた。
片時だって、俺の仕草を見逃したりしなかった。
俺の心のどんな動きにだって敏感だった。

今だって、
こんなになってまで、
俺のこと、突き放せないでいる。


応えて、くれる。


俺が彼の名を呼ぶたび、壊れていくものがあった。




「そんな言葉じゃ、俺は救われないんだよ……っ」



お前がいなきゃ、意味がないんだ、と。


俺はその言葉が聞きたかったのかな。
これからの生きる希望に、糧に、したかったのかな。



くすり、と気づかれないように微笑む。

自分より傷ついたものを見て
満たされたはず。癒されたはず。
これで、生きていけるはず。

彼が潰れていくその姿がいとおしくて
それ以上に滑稽で。
涙で視界がいっぱいになった。


俺、未だ、捨てられないんだ。
捨てたのは俺なのに、彼には捨てられたくないだなんて。

そうやって、未だ、彼を捨てきれない。
気づいてって、期待しているんだ。

残酷な、感情だよね。



「お前のこと、俺が見抜けないとでも思ってんのかよ……」


でも、全部わかった上での、この仕打ち。
これじゃあ、返り討ちだ。

壊してしまったものの重さにようやく気づいてももう遅くて
もはや贖うことすらできないのだと
今更に思い知った。



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