いなければ、それで良かった。
その方が良かった。
でも、いたから。

アスマが、いたから。






気づいた時には
俺はアスマの家の前にいて
いけない、とも思ったのだけれど
とうに手遅れだった。




「……何やってんだよ、お前」



俺を見たアスマの第一声がそれだった。

当然と言えば、当然なのだろう。
こんな土砂降りの中、傘もささずにずぶ濡れで、自分の教え子が訪ねてなんか来たら
そりゃ誰だって驚くっつの。

面倒なことこの上ない。
そんなこと思われたかもしれない、と少しだけ後悔した。




「アスマ……」



肌の熱が雨に奪われていく。
のどが渇いて、唇が冷たくて。
でも、躰の中は灼けるように熱かった。

彼の名を呼んだつもりだったけれど
うまく音になったかは、わからない。
そのかたわら、雨は激しくなる一方。

うるせえな。


その雑音の所為で、きっと俺の声は聞こえなかったと思う。
きっと、届かなかったと思う。



「とにかく中入れよ、風邪ひくだろ」



そう言って、アスマの手が俺の肩に触れる。

冷えた躰に、彼の手は熱くて
体内の熱が待ち焦がれていたかのように

ドクン。

と鼓動を鳴らせた。

その音は、異常なほど鳴り響いて
どくどくと加速する鼓動が、触れられた箇所から伝わってしまうんじゃないか。
心臓が灼けてしまうんじゃないか。

そう思った。




「っ」
「! ……、シカマル?」



パシン、と乾いた音。
じり、とわずかに後ずさる。


だってこの手は、この温もりは
どんなに頑張ったところで、手に入れることなどできはしなくて。
決して俺のモノにはならなくて。

こんなに想っているのに。

そう思うと、受け入れることができなかった。
どうしてこう、どこまでもガキだなんだろうと
頭の中では窘めるのに。



深く溜息をついて言い聞かせる。
大丈夫。
ちゃんと、わかっているだろう、と。
期待なんて、とうに捨てただろう、と。

雨が、冷たい。
強がる自分に気づいて、悲しくなった。




「……、」
「…………」



初めてアスマに会った時は
煙草ばっか吸ってるただのおっさん、そんな、それだけの印象。
見るからに適当くさくて、やる気あんのかよ、と思ったけれど
俺の言えた義理でもなかった。

馴れ馴れしい変な奴、としか認識することはなかったのに
慣れていくにつれて
アスマの傍は気安くて楽、そう感じた。

それからはもう速い。
共に過ごす時間が増えて、距離が近づいて
いつしか、眼を奪われると
姿を追うようになって
追うだけじゃ足りなくて、探して

となりにいたくて

そして、本当にいつの間にか
作戦さえ練る隙もなしに
苦しくなって
苦しくて苦しくて

苦しくて

今も、




「おい、シカマル!」



その声で我にかえった。
少し間をあけて、顔を上げてみる。

やっぱりアスマは煙草を咥えていて
なんだかほっとした。


優しさは時に残酷だと言う。

勝手に好きになって
挙句に伸ばされた手をはねのけて
それでも本当は優しくされたいくせに。
構ってくれないと、嫌なのに。

誰がそんなこと言えただろう。


頭では理不尽な言いがかりだって知っている。
だけど

アスマ、あんたは俺のこと拒まなかったくせに。

躰中が、そう叫んでいる。



今も、苦しいよ。




「シカマル、どうしたんだよ?」



視界は白く歪んで、崩れ落ちた。
俺は嫌々と首を振る。これじゃあ駄々を捏ねる子供みたいだ。
でも、雨が降っているおかげで気づかれてはいないだろう。

眼だけが、灼けるような熱を帯びて


もう良いじゃないか、と諦めるのに
そう思うのに
涙が、止まらない。止まってくれない。




「アスマ……」


声が震えた。
それを察して、アスマは俺の顔を覗き込んできた。
その何も知らない顔。

これから俺が何を口にするかなんて知らないんだ。
知るはずもないんだ。


アスマの後ろにはきっと、
きっと、紅がいるんだろうな。




「あのさ、……」
「あぁ」



不信そうな顔で
それでも急かすことはなくアスマは頷いた。



「……っ」



こんなこと、初めてだったんだ。
自分さえコントロールできなくなるなんて
どうしようもなかったんだ。

できれば言いたくなんかない。
こんなバカげた想い、消してしまいたい。

でも、もう面倒で
恥ずかしくて、格好悪くて。
こんな自分が、心底面倒で。
ケリをつけるしかないと思ったんだ。


アスマ。
アンタに溺れちまったんだよ、俺。



「俺」



応えてほしいわけでも
助けてほしいわけでもない。

ただ、知ってもらうことが
そうやって終わらせることが、必要だと思った。

面倒なこの想いから、解放されるには。


アスマの後ろで
紅が何か言ったのだろうか。

アスマが、後ろを振り返ったから。



―アスマ、こっち、向けよ。




「すき、なんだ…………」



その隙に、小さくそう呟いて
土砂降りの中を駆け出した。

アスマが俺の名前を呼んだ気がしたけれど
それでも俺は振り返らなかった。

激しさを増す雨が痛かったけれど
丁度良いな、と思う。


雨が、すべてを洗い流してくれることを
願ったのかもしれない。


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