これは一生もの。



 あのときの



周囲の音がやけに遠くに感じた。
異様な静けさだ。

息遣い、唾を飲み込む咽喉、スパイクになじられる砂、
摩擦するユニフォーム。


18.44m先にいる三橋がおおきく振りかぶって、
力いっぱい、オレのミット目がけて腕を振った。

汗が滴り
地面に
落ちた、瞬間。



キイィィィィィィィン




放たれたボールは、バッターの完璧なスイングに
吸い込まれるかのようにバットの真心で捕えられ、
最高の金切り音を上げた。

美しい放物線を描いて飛んだボールは、
澄み渡る青空を追うように、どこまでも遠く、果てしなく遠くへ、
まるで、初めから存在すらしなかったのだという滑稽な錯覚をさせたけれど、

そんな妄想はスコアボードに阻まれ、鈍い衝撃音とともに、
醜く落下した。



呆然と立ち尽くしたのはほんの数秒。

三橋はいつまでもスコアボードに釘付けされて、
今どんな表情をしているのか、見えなかった。






「みはっ……」


さよならのランナーがホームベースを踏んだと同時にオレは叫んだが、
当の本人はいつの間にか、オレに向き直っていた。
オレは驚いて、名を途切らせた。

三橋は、グラブを胸の前に抱えて、右手をその中に収めていた。
手の中に、ボールがあるはずはない。
それでも、三橋は、睨むようにじっとオレから視線を外さなかった。


(三橋は、オレのサインを待っている)


そう直感して、血の気が引いた。

そう、その顔を見て、
その眼に睨みつけられて、
金縛りに遭ったみたいに、身動きが取れなくなった。
そして、
湧き上がる歓声が、やけに遠くに感じたんだ。


* * * * * * * * * * * * *



勢いよく布団を蹴飛ばして、夢から醒めた。
体は汗をかいている。呼吸も少し荒かった。


(またか……)


夏の最終戦の夢。
あれからもうどれくらい経っただろう。


(卒業するまでは、こんな夢、見なかったじゃねえか……)


オレは、今月の初めに西浦高校を卒業したばかりだった。


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大学の入学式までは、三週間余り。
都内への進学を決めていたオレは、春から一人暮らしをすることになっている。

母親から部屋の片づけを催促されていたけれど、
特に持っていかなければならない物が思いつかない。
ふと、部屋の隅に、うっすらと埃をかぶったミットが目に入ったが、素通りする。

卒業してから約一週間、
昼まで寝て、悪夢に起こされて、飯を食い、
テレビを見て、本を読んで、また飯を食い、風呂に入り、寝る、という
完全に堕落した生活を送っていた。

何となく、力が湧いてこないのだ。
探し物をしていたのに、その探し物が何だったか忘れてしまうような感覚。
虚しくて、淋しくて、暗い……

はあ、と溜息をついたとき、インターホンが鳴った。


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「タカーーーーー、お友達、来てるわよ!」


一階から母親の声。
友達って誰だ? 花井か、栄口か……
ふと携帯をみるけれど、メールも着信もない。

不思議に思ったけれど、階下からの要求がうるさかったので、
今行く、と叫んで足早に階段を下りた。

そこに立っていた男を見て、オレはぎくりとした。



「三橋君、上がって上がって。タカったら今起きたのよ、ほんとだらしないでしょう?」


母親は嬉しそうに笑って、キッチンへ消えながら愛想良く文句を言った。


「るせーな……。どうした、何か用か?」
「あの、今日、話が……」
「あ? 話?」
「う、うん」
「えっと……とりあえず、上がれよ」
「外、気持ちが良い、よ」
「わかった、外な。着替えてくっから、待ってろ」
「あ、りがと」


オレは動揺を隠すように二階へ駆け上がった。

どうして、と、何しにここへ、という問いが交互に浮かんで、
心臓が少しだけ早くなった。


--------------------------



家の前で立ち尽くしていてもなんだから、とオレたちは適当に歩いた。

目的もなく歩く。
三橋はというと、自分から誘ってきたのにさっきからだんまりで、
オレの様子をちらちらと伺い見ている。

オレは、平常心、平常心……と念じながら、視線を逸らした。
こっちから聞いてやんねえと、話もできねえのか、と心の中で毒づく。


「で、なんの用?」
「えっ……!?」
「え、じゃねえよ……テメエがオレんちに押しかけてきたんだろうが」
「あ、あ、あのっ、ごめ、オレ、めいわ」
「あー……うん、悪い。別に迷惑とかじゃなくてさ……。喋りたくなったら、喋れよ」
「う、……わかった」


ほっとするように息を吐いた三橋を見て、
オレも同じように息を吐く。
どうしてオレが、こんなに気を遣わなければならないのか、
という疑問は、胸の奥に仕舞った。

オレは仕方なく、近くの公園に行くことにした。
ジュースでも買って飲んで、
飲み終わってもこの調子だったら、帰ろう、と心に決めた。


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日中は陽射しが暖かだけれど、空気はまだ少し冷たい。
それが気持ち良かった。

オレたちは、広場のベンチに腰掛けて、ジュースを開けた。



「オレ、さ、……群馬に、戻るんだ」
「知ってっけど」
「う、それ、それで、」
「ああ」
「会えなく、なる、と思っ……」
「まあ……、そうだな」
「だから、阿部君、に、最後に……」
「…………」



オレに? 最後に?

ああ、さよならの挨拶に来たのか。
通りでいつもより神妙な顔をしていたのか、と勝手に納得する。

こいつといると、妙にはらはらするから、
野球以外での関わりを、ほとんど持たなかった。
もちろん、それは嫌いという意味ではまったくない。

むしろ、どちらかというと、好感だって持っている、と思う。たぶん……。
ただ、こいつの一挙手一投足が、妙にオレの不安を煽るというか、
視界に入っていると、どうも落ち着かなくなるのだ。
だから、なるべく、距離を置いていたのも事実で。

でも、バッテリーとしてなら、オレたちは最高のパートナーだったと思う。
きっと、三橋だってそうだと思う。
きっと……。

オレは三橋の球を受けることができて、三橋と強くなることができて
心から良かったと思っている。
他の誰でもない、三橋で良かったと。

後悔なんてなかった。
オレたちは、オレたちのできるすべてを手に入れて、そのすべてを出し切った。
あの、球場に、すべてを置いてきたんだ。

だから、もう思い残すことなんてないんだ。


そうだろう?
だから、笑ってさよならを言いに来たんだろう?


「お前って、変なとこで律儀だよな」
「……阿部君は」
「ん」
「阿部君は、何か、忘れてない、か」
「は?」
「……と思った、から」
「何かって、何だよ?」
「えっと……それ、は」
「何?」
「う……あ、の」
「わっかんねえだろーが、はっきり言えよっ!」
「っ!」


つい大きな声を出してしまい、三橋が小さくなる。
びくびくとした態度とは裏腹に、ずけずけとしたもの言いもする。
そういうことろが意味不明で、苛々してしまうのだ。
次の予測ができなくて、無防備なところを攻められるようで、恐怖でもある。

だから、つい、きつく当たってしまう。
防衛本能が過敏に反応して、自分を守ろうとしているのだ。
決してオレが短気なわけではない。

オレは、深呼吸をしてから、優しく、できる限り大らかに発声した。


「ごめん、三橋。怒ってるわけじゃねえからさ」
「……あ、」
「ただ、言ってる意味がわかんねーっつうか……」
「オレ、阿部君……、最後に、ずっと、気になって……」
「……」
「もしかして、オレのせいって、……でも、」
「…………」


三橋の翻訳係は、いない。

こいつ、こんなんで、これからやっていけるのだろうか?
地元に戻るなら、叶とかいう奴が一緒だから大丈夫だろうか。
誰かに、ひどいことをされて、泣くんじゃないだろうか。
また卑屈になって、自分を責めるんじゃないだろうか……

現状から逃避するように
そんな心配が頭をよぎるが、今は置いておく。

そう、今は、三橋が何を言っているのか、
解読しなければ……


「オレは、ね、後悔、ばっかりだ」
「……え?」


三橋の言葉に、耳を疑った。
心外すらして、食い入るように三橋を見たけれど、
俯いているこいつには、無意味だった。

後悔?
それは、オレとの二年半のことを言っているのか。
それ以外にはないだろう。

オレと三橋には、それ以外の繋がりなど、何一つないのだから。
でも、それがオレたちにとって、すべてじゃなかったのか。


さっきまで、気持ち良く感じた風も、
ジュースで冷えた体には、鋭い針のように苦痛に感じた。


* * * * * * * * * * * * *



「三橋」
「……あ、……」
「三橋、整列だ」
「……っ、……うん」


マウンドに立ちつくす三橋に気づいた田島と栄口が、
キャップで顔を隠しながら、三橋の肩を抱いて誘導する。
三橋は夢から醒めたかのように一瞬はっとして
それから、思いだしたように顔をくしゃくしゃに歪めて、
ホームに帰って来た。

みんな、顔を伏せて、肩を震わせていた。
汗だか涙だか分からない雫が、ぼたぼたと地面に落ちては、蒸発していく。
嗚咽とともに絞り出した彼らの思いの丈は、
灼熱の太陽に、いとも容易くかき消され、無に帰されてしまう。

泣いたって無意味なのだと、そう罵倒しているのか激励しているのか、
どっちだろうと、オレはぼんやり思った。

脳裏には、オレを睨むようにしてマウンドに立つ三橋の姿が灼きついてしまった。
面食らったまま、動揺を隠すので必死だったオレは、
その日、泣くことができなかった。

オレだけが、ぼんやりと、みんなが泣き崩れる姿を他人事のように見ていた。

オレだけが、あのとき……


* * * * * * * * * * * * *



「阿部君?」
「……っ!」
「大丈、夫? 気分、悪そう」
「いや、……ちょっと考え事してただけだ」
「そ、そっか……」


体は冷えていたが、汗をかいている。

ついに、白昼夢にまでなってしまったのか。
見境のない自分の夢に、心底うんざりする。

三橋が急に会いに来たからじゃないのか。
訳のわからないことを言って、オレを混乱させるからじゃ、と転嫁したくもなる。

でも、
ここで、やっと、
あのとき、オレと三橋の間で交わされた、
得体の知れない想いに決着がつくんじゃないか、と期待した。
やっと、あの悪夢から逃れられるんだと。


「オレ、は、もっと、できると思ったよ」
「え?」
「阿部君となら、オレは、……」
「ごめん、ちょっとわかん」
「勝てる、って、思った、よ?」
「っ」
「もっと、投げられたんだ」
「三橋……」
「オレは……未練、ばっかり、なんだ」
「みはし、もう」
「阿部君は、知ってる、よね?」
「……っ」


* * * * * * * * * * * * *



それでも、三橋は、睨むようにじっとオレから視線を外さなかった。


(三橋は、オレのサインを待っている)


そう直感して、血の気が引いた。

そう、その顔を見て、オレは。
その眼に睨みつけられて、
オレは、
あのときの全部を、それまでの全部を、
呑み込んだんだ。


* * * * * * * * * * * * *



後悔と未練でいっぱいだったのはオレだった。

それは、間違いなく三橋によって与えられた残骸。
あのとき、三橋の眼が、まだだ、と訴えかけて
まだ、終わらせない、とオレを縛った。

こいつ自身、無意識なのか望んでだったのかは、わからない。
ただ、気持ちが昂揚していたことは確か。

もう、今となっては、冷めただろう。


オレは、綺麗に終わりたかった。
これまでのオレたち、あのときのオレたちを、全部、
あの場所に置いて、
存分に泣いて、綺麗さっぱり、昇華させたかったんだ。

誰だってそうだろう。
続くことのない思い出は、綺麗に終わらせたい。
次へ進むために……。
だから、みんなも、三橋も、あんなに泣いたんだろう?


「お前、すっげえ泣いてたよな」
「あ、れは、みんな、見てたら……」
「薄情だよなあ」
「い、いや、でも、オレっ」
「良いよ、もう。終わったことだ」
「え」
「やっと、オレも、終わりにできる」
「おわって、ない」
「あ?」
「終わって、ない、よ!」
「な、に言っ……」


三橋は、そう叫んで、オレの左腕を掴んだ。
青ざめた顔からは、想像もつかないほど、その手は熱かった。

そして、また、あのときと同じように、
鋭く攻撃的な眼差しをオレに向ける。

あのときの悔しさも
あのときの想いも
あのとき流したであろう涙も
あのとき昇華できなかった、ぜんぶを

その眼が、それを許さない。


「終わらせ、ない」
「お前……」
「オレは、そんなの、嫌だ」
「……んだよ、それ」
「阿部君も、未練を、残し続けて」
「勝手なこと言ってんじゃねえ……!」
「阿部君、は……」
「もう……」

「誰にも、渡さない」


夏のあの、灼熱の太陽にも似た眼光の強さに
また時間を巻き戻されるようで、オレは気が遠くなった。

苦しい。
喉の奥が灼けそうなくらい痛んだ。

こいつは、なんて勝手で、残酷なことを言うのだろう。


「……ずりぃよ、お前」
「うん……」
「遠くに行っちまうのに……」
「ごめん……」
「……もう良いだろう」
「ごめん、オレ、卑怯だ。ずるくて、ひどい、んだ」
「これ以上、どうしろってんだ……」
「後悔、して、オレとの全部」
「やめてくれ……」
「そしたら、未練になって、ずっと、阿部君を、」
「やめろ……!」


強く、手を振り解いた。
勢い余って、三橋の手がベンチに叩きつけられるようにぶつかる。

爪が当たったのか、がちっ、という鈍い音。


「三橋っ、お前、爪……!?」
「だい、じょうぶ」
「大丈夫じゃねえ! 見せろ!」
「ごめん……」
「どう考えても、今のはオレが悪いだろ」
「そう、だね……ごめん」
「だからっ……」


三橋の右手を、隈なく探って、傷がないか確認した。
その二人の手に、
ぽつ、と水が落ちた。


雨?


「ごめ、阿部く……」
「みは」
「ごめんね、オレ、また……」
「……っ」
「また、オレだけっ……」


三橋の眼から、ぼろぼろと涙が溢れ出した。

三橋は、全部、わかっている。
自分が、どれだけ残酷な仕打ちをオレにしているかってことを。

でも、わかっていて、その上で、それを望んで
オレに強いるのだ。


「お前……」
「阿部君、は、オレの、なんだ」
「なん、なんだよ……っ」


三橋。お前、ちゃんと覚えてんじゃねえか。

涙にはストレス物質が含まれていて、
それを流すことによってストレスを発散させてしまう。
だから、泣くことは、悔しさを晴らしてしまうということ。


三橋は、オレに、泣くことすら許さない。


だからって、少しくらい良いんじゃないか。
わかっているなら、謝るくらいなら。


(オレにも、泣かせてくれよ……)


オレは、怒りと憎しみで、発狂しそうだったけれど、歯を食いしばって耐えた。
非常な精神状態とは裏腹に、不思議と、オレの手は三橋の手を優しく包んでいた。

たぶん顔は、強がって涙を堪える小さな子供のように、歪んでいたと思う。
笑ってしまうくらいに。

事実、三橋は泣きながら笑い出した。
瞬間、オレは、優しく握った手を放り出して、ウメボシを食らわせた。


--------------------------



本当は、ずっと、泣きたかった。
みんなと同じように、肩を抱き合って、想いを分かち合って、
そして、良い思い出だったと、ありがとうと言って、
終わらせたかった。
三橋のいない未来へ、進むために。

だけど、そんな夢は妄想に終わった。

あのときの、三橋とオレの、ぜんぶは、すべては、
燻ったまま
昇華できずに

一生、引きずっていくのだろう。



これじゃあ、まるで、


「生き地獄じゃねえか……」


そう呟いたオレの口元は、片側だけ斜めに上がって、
それを見た三橋も、同じように不自然に歪ませた。

抗えなかったのは、
たぶん、こいつが、
これほどまでに、自分を求め、望んでくれたことが
心底、
心底、嬉しかったから。


(これで、満足か?)


そう問いかける。

満足だ。
こいつも、オレも。きっと。


2015.7.6
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