不断



「ファイ!どこにいたの?みんな心配したよ?」


俺を見つけた真っ白なもこもこが、
そう言って俺の肩に飛びついてきた。

柔らかくて温かい、優しい塊。
思わず息が洩れた。


「ごめんね、モコナ。みんなも」
「どこに行っていたんですか?」
「ちょっとねえ、お散歩」
「そうですか……。無事で何よりです」
「やだなあ、そんなに心配しないでよ」
「すみません、でも本当に良かったです」


そう言って、小狼は笑った。

いつでも真っ直ぐで無垢な彼の瞳。
純粋だけれど、痛みを知っているその瞳は、どこかいつも淋しそうに笑う。
あぁ、綺麗だな、と刹那に見とれてしまう。
だから、少しだけ苦手だった。

これじゃあ、人の不幸を愉しんでいるみたいだ。

だからいつも、逃げるようにはぐらかして自分を保っている。
それが、俺の不具合の一つ。


「ファイさん」
「何?小狼くん」
「今度は、俺も、誘ってください」
「え?」
「散歩です」
「あぁ……そうだね。今度は一緒に行こうか」


思ってもいない薄っぺらな言葉を平気で放つ自分。
そんなことにはもう慣れてしまって、罪悪感はもうないと思う。
それが当然なんだと、
嘘という攻撃は、自分を守る防衛手段なのかもしれないな、
と体の良い言い訳を思いついた。



「……良かった」


あぁ、綺麗だな。


小狼は俺を見上げて、また、笑う。
不安と安堵が入り混じったような表情だった。
少し、傷ついたような。

頭の中で、警告音が鳴っている。
これ以上は、危険だ。



「ほら、さくらちゃんが呼んでるよ」


警告に素直に従って、そう促す。にっこりと、笑ってあげる。
彼を遠ざけるために。



「はい、でも……」


何かを期待するような眼差しに、眼を背けそうになった。


俺は何かに、期待をしたことがあっただろうか。
思案しても、思い浮かばなかった。
ただ、今の状態に甘んじていないと言えば、嘘になるかもしれない。
確かに、今のままでいられたら良いとは思う。
緊張感のない、温かな、日常。
こんな風に笑っていられたらと、考えたことがないわけではない。

だけど、期待はしていない。
いつ失っても良いと、どうせいつかは終わるんだと分かっているからかな。
期待なんて、少なくとも、役に立たないことなんか、百も承知だから。

小狼だってそうだろう。
だからあんな顔で笑うのだ。

でも、そんな君でも、望まずにはいられないことがあるのかな。
駄目だと分かっていても、絶望だと知りながらも。
そんな顔で、笑えるほどの。

それは、どんな、願いだろうか。



「行ってあげて」
「……、」
「待たせたら、可哀相でしょ」
「俺を、待ってる……」
「そうだよ。君、を」
「違います」
「え?」
「待っているのは、俺です……」


でも、それは、

それは紛れもなく、汚れた願い。

例えば、そんな想いがあったとして、
それは願うことすら許されないのだろうか?
傲慢でしかないと、果たして言えるだろうか?



「……そんなこと、言うもんじゃないね」
「ファイさ……」
「それなら、彼女の気持ち、わかるよね」
「それは……」
「待つのは、つらい?」
「……すみません」
「何が?」
「俺……、行きます」
「うん」


自分の言葉に後悔したのか、小狼は俺の顔を見なかった。
俯いて、拳を握る。

優しく諭すように、軽く背中を押してあげれば、
聞き分けの良い彼は、一つ頷き踵を返した。


俺は、泣きそうな後ろ姿から、眼を逸らした。








「………………はあ」


眼を瞑ると、のしかかる重圧から開放されたかのように脱力する。
傍にあった壁に凭れて、重い溜息を吐いた。


危なかった。
小狼を見ていると、警告が加速する。
彼の気持ちに負けそうだった。
日毎に強くなる彼の想いには、ちょっとでも油断すると、取り込まれてしまいそうな危うさがある。

諦めて、流れに任せてしまおうかとも思ったけれど。
いつものように思ってもいない言葉を吐いて、あしらってしまおうかとも思ったけれど。

それが、汚くも最も穏やかな解決法ではないだろうか。

だけど、しない。
そうしないのは。きっと。





「おい」


どくん。

低い声が背後から聞こえると同時に、腕をつかまれた。


「わ……っ、驚いたあ」
「何してやがる、行くぞ」
「え、どこへ連れて行く気ー?」
「ふざけてんじゃねえ」
「やだなあ……冗談」
「勝手に言ってろ」
「……」
「どうした」
「ねえ、くろりん」
「その呼び方はやめろ」
「どう思う?」
「何がだ」
「彼、俺に気があるんだよ」


黒鋼は一瞬だけ、その眼に不快の色を映した。
小狼の話題に対してか、それとも俺の物言いになのか。
おそらく後者だろう。

どちらにしても、黒鋼はわかりやすい。
感情表現が豊かとは言えないけれど、自分を押さえ込んだり、無理に作ったりしない。
少なくとも小狼より安定している。
黒鋼のことは、素直に好きだと思えた。
ふ、と息が洩らすと、彼は舌打ちをした。


「ならはっきり言や良いだろ」
「何て?」
「んなこた自分で考えろ」


そう言い捨てて、黒鋼は俺から視線を外した。
つかまれた腕が解放されて、少しだけ痛みが残る。
この虚無感。
人と人の関係を表している気がした。

その狭間を、中途半端に行ったり来たりして、いつもふらふらと覚束ない自分。
人と、深く繋がりたくない。
俺は誰のものにもならない。

だから結果的に、思わせぶりをして突き放すことになる。

今までそうやって、他人と一線を引いていたけれど。
いつしか、見えない何かに纏わりつかれて、どんどん不自由になっていくみたいだ。
自分の蒔いた種から、芽が出て、蔓が伸びて、身動きがとれなくなる。

危険を察知できても、回避できなければ、意味がないのに。



「やきもち妬いてる?」
「誰が妬くか」
「それなら良かった」
「っ」


黒鋼はまた、鋭く眼を瞠る。
そして諦めたように言葉を噤む。

人の心を平気で傷つけて、平気で踏みにじって。
今更戻ることができないからかな。
自棄になったみたいに、自分も、他人も傷つけている。

いつからだろう、こんな。

そんな狂気を、黒鋼はわかっていて俺につき合っている。
わかっていない小狼なんかは、恰好の餌食だと思う。
何度、彼の傷ついた姿を目の当たりにしただろう。

その度に、彼は笑う。
淋しそうに、痛そうに、悲しそうに。
それでも、綺麗に、笑うんだ。

俺の汚さに触れても、綺麗であり続ける彼は脅威だった。

彼は駄目だ、と本能的に思った。


俺の傍にいられる唯一の方法を
きっと、小狼は一生気づかないだろうと思う。
気づけないだろうと、思う。




「趣味悪ぃんだよ」


ほら、ね。

黒鋼は分かっているから。
分かって、くれているから。


「その趣味悪い奴にどうして惚れちゃったの」
「知るか」
「……可哀相」
「何だと?」
「可哀相だよね、ホントに」
「誰のこと言ってんだ」
「さあ」



俺は遠くを見つめた。
黒鋼が俺の視線の先を追う。


「手放す気はないんだ」
「そうかよ」
「手に入れるつもりもないけどね」
「生殺しじゃねぇか」
「それでも良いんでしょ、くろりんは」


にっこりと笑うと、鋭く睨みつけられた。

黒鋼は、いつまでこんな奴に
つき合ってくれるんだか。


「良いわきゃねえだろうが」
「あれ、そうなの?」
「テメエが憎いが、それ以上に好きなだけだ」

「やだ、なあ……」


ホント、嫌になるよ。
汚いのも、趣味が悪いのも、きっと黒鋼のほうだと思う。

綺麗なものは、もう沢山だっていうのに。



「ただな、アイツは信じてんぞ」
「何それ、応援してるの、恋敵を」
「親切心だ」
「誰に対して?」
「俺に決まってる」
「……、黒鋼らしいなあ」



あのコはね
俺のことを優しいと言うんだ。
強くて、綺麗な心をしている、なんて言うんだよ。



「俺、綺麗なモノって、大嫌いだから」


自分のことは、自分がいちばん知っている。
どれだけ汚くて卑しいか、いちばん分かっているから。

あのコの純真な、無垢な言葉が
どれだけ俺を掻き乱すことか。苛立たせることか。









「おい……」
「名前を呼んでよ、黒鋼……」



綺麗なものに嫉妬して、執着して、
本当は触れてみたくて。

そんな欲に、俺はどんどん汚れていくよ。



「なんて面してやがる」



触れたら、お終いだと思う。
汚れるのは、俺だけで充分だ。



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