貴方だけを裏切ったまま。





 穏やかすぎて


春が来た。

冬の寒さを乗り越えたものだけに訪れる
温かで優しいこの季節。

桜の花を一人で見ていると
何もかも忘れてしまいそうになる。

仲間のこと
人を殺めたこと
自分の信念
大切な人の死

いろんな記憶が、穏やかに、ぼかされていく。

どうしてだろうか。



「綺麗だな……」


淡い桃色の花びらに包まれて

やっぱり
何もかも忘れられる気がした。

何もかも忘れて
何もかも失って
悲しむことさえできなくなる。
そんな気がした。

それは、穏やかだろうと思う。



「綺麗だね……」


同意を求めたけれど
あるべきはずの返事はない。

代わりに
名を呼ばれた。



「平助?」


何故だか期待を込めて
声がした方向を振り返ったのは
まだ忘れたくない証。

未練で後悔でいっぱいな証だと思う。

それを嬉しいとさえ、思っている。


本当は泣き崩れたいのに
今にも膝が折れそうなのに

俺の顔は、穏やかに笑っているのだと思う。
それが、彼への精一杯の誠意だったから。


誰に何を言われても
俺はそうするんだと思う。




「…………」
「平助」
「なんですか?」
「どうしたの、ぼんやりとして」
「桜が綺麗で、つい……」
「大丈夫、なの?」



俺は
声の主をじっと見つめた。

ああ、疑われているのだと
信用されていないのだと

自分だって同じなのに。
誰も信じていないくせに。

他人にそう思われるのは嫌だみたいだ。
本当に勝手だよね。
だから子供だって、言われるのかな。


真意を測ろうとするのは信じたい証だと、思う。
目の前のこの人は
信じようとしてくれていると思えるのに。

俺は、どうだろうか。



「伊東先生」
「何、平助?」
「心配は、無用です」



俺がそう言って笑みを洩らすと
そうね、と伊東さんも眼を細めた。

がっかりしたように
少しだけ見えた。



「会いたいんじゃない?」
「誰にですか?」
「彼、に」
「信用ないなぁ……俺」
「そうじゃないでしょう?」
「え……?」
「誰も信用していないのは、貴方のほうなんじゃない?」



視界に映るのは優しい桃色。


だめだ、と思った。
何もかも
見失ってしまいそうだった。


彼を、これ以上裏切りたくなかったから
だから誰も信じないと決めた。


俺には彼だけなんだと。
心だけは、彼を想い続けると。


それは揺らいではいけない、決意だったはず。



そのためなら
何だって誰だって
裏切れると思った。





「伊東さん」


痛みに鈍くなるくらいなら
それで死んだほうが遥かにましだった。


それは一方では
逃げ道なのかもしれないけれど。

それでも、彼の痛みは
一生負っていきたいと思ったんだ。


だから、誰も信じない。
誰も、俺は、



「何、平助」


優しくて
引き込まれそうになった。

伊東さんの本当のところの真意はわからないけれど
俺がそう思った事実が、
すべてなんだと思う。


この人は俺を信じている。
信じてくれている。



「貴方は、汚い」
「それは褒め言葉?」
「信じられている気がしてしまう」
「それは光栄ね」
「いつか、足下を掬われますよ」
「その時はその時」
「俺、」
「ええ」



確かに思ったんだ。



「貴方とともに、生きても良いでしょうか」



伊東さんを信じたわけじゃない。

俺には、彼だけで良いと思うから。

ただ、
伊東さんを
この人を傷つけるくらいなら、裏切るくらいなら
俺は彼だけを信じたまま死のうとも、思ったんだ。




「貴方がしたいようにすれば良いのよ」



山南さんにしてあげられなかったことを
せめて
この人には。





「…………しい」
「何?」
「いいえ、何も」
「平助?」
「綺麗ですね、と」
「そうね」




傍にいないことが、こんなにも想いを風化させるだなんて。







「……淋、しいよ」



穏やかすぎて、何もかも見失いそうだった。


inserted by FC2 system