これが未練というものなのか。



 終わりの始まり



三年の夏が終わった。

それまでは、あんなにずっと一緒にいたのに、
それがまるで嘘だったかのように、
オレの視界から三橋が消えた。

と言っても、クラスは二組隣だから
休み時間とか、昼飯のときは普通に見かける。
挨拶とか、軽く話をすることだってある。

でも、
オレの視界に、三橋の姿はもう見えなかった。
それに安堵する自分と、恐怖を覚える自分。

噛み合わない自分の感情に、苛立ちを感じていた。


「三橋」
「っ!」
「おう」
「ど、う」
「……ちっと話あんだけど、もう帰り?」
「あ、う、うん」
「田島たちは?」
「掃除当番? と、先生、呼び出し?」
「あっそ、じゃあ一緒帰ろうぜ」
「う、うん」


三橋が一人でいるのは珍しかったけれど、好都合だった。
田島や泉がいると、何やかんやと目敏く詮索してくるからだ。

浜田が気づいて何か言いたげに口を開いたが、それをオレは目で制す。
物分かりの良い奴。
彼は、くるっと後ろを向くと何もなかったように
クラスメイトと再び話し始めた。
今度ジュースでも奢らないと。

邪魔者が入らないうちに、さっさと連れ出してしまおう。


「もう、外、涼しいね」
「そうだな」


三橋と二人、自転車を引いて並んで歩く。

夏の最後の試合が終わって、一か月と少し。
まだ、あの夏の余韻が肌にひりひりと残っていたけれど、
残暑も過ぎて、いつの間にかやってきた心地良い風が
少しずつ、その熱を冷やしていく。

望むも望まないもなく奪い去っていくのを
残酷だと思いながら、ただ傍観するしかできなかった。


「阿部君…、ベンキョウ、は」
「うーん、まずまずかな」
「一般、って?」
「ああ、時間がいくらあっても足んねえ。お前は推薦だろ?」
「う、ん」
「そっか……」


久しぶりに近くで三橋の顔を見る。
三橋も同時にオレを見たから、ばちっと目が合った。

瞬間、ぐりん、と三橋は首を180度回した。
筋をどうにかしそうな程の勢いで、内心冷やっとしたけれど、何も言わない。
そう、もう、何も言わない。

三橋に気づかれないように、小さく舌打ちをする。
オレは、もう、何も言えないのだろうかと。


「あ、べ、くんは」
「ん」
「野球、続ける?」
「……っ」


自分でも何を驚いたのか分からない。
ただ、吸った息をうまく吐くことができなくて、苦しくなった。

三橋は、オレから顔を背けたままだったから、気づいていない。
忍ぶように、ゆっくりと息を吐く。
落ち着け、と自分の体に命令した。


「阿部、君?」
「あ、ああ、悪ぃ」
「……」
「……」


オレが口籠ると、三橋は戸惑いながら、ちらちらとオレの様子を窺っていた。
同じことをもう一度聞けないようだ。

三橋、と名を呼ぶと、
三橋の体は飛び跳ねるくらい、びくりと波打って
おそるおそる、視線を合わせる。

相変わらずの挙動に苛々したけれど、
何故だか、鼻の奥がじーんと痛んだ。



「オレたち、これから……」
「……?」
「これからは、違う道に進むんだよな」
「ちがう、みち……?」
「なあ、三橋」
「阿部君、どこか、寄り道し……」
「は? 違えよ」
「……っご、めんな、さ」
「だから、違くて……」
「あ、べくん?」


三橋がオレを見て、泣きそうな顔をする。

ああ、ほんと、苛々する。
普通に喋れるようにはなったけれど、こういうところは、まるで変わらない。

でも、オレもそう。
お前にうまく接してやることなんか、今でもできないんだ。


「三橋、オレは」
「う……」
「投手としてじゃなくても、オレはお前が好きだよ」
「、えっ」
「オレがお前に言ったこと、嘘だと思ってるかもしんねえけど、
 全部、本当だと思ってるよ」
「っ……!」


口から滑り出た言葉に、自分でも驚いた。
三橋も、目と口を大きく開けて、固まっていた。

どうかしているとしか、思えなかった。





白く透明な陽射しは、
段々と黄色に、そしてオレンジに染まっていく。

二人とも黙って歩いた。
自分が何を言いたかったのかまるで分からなくなって、押し黙るしかなかった。
でも、会話がないのはいつものことだ。
それが、こんなにも悲しく思えるのは、きっと夕暮れのせいだろう。



「オレは、続ける、よ」


ぽつりと三橋が呟いた。


「え?」
「オレは、続けるよ、野球」
「……だろうな」
「阿部君も、続けるよ、ね?」
「オレは、……」


強い眼差しだった。

それは、オレが毎日受けていたものだった。
毎日、毎日、毎日。
オレがミットを構えれば、それはいつだって、目の前にあったんだ。
懐かしさと、もう味わうことのできない失望感が一気に襲いかかって、
ああ、だめだと思ったけれど、遅かった。


あの頃、あの時、オレが言ったすべての言葉は
三橋に届いていただろうか。

偽善も嘘も建前もあったけれど、
本当に本当だと思ったんだ。

苛立って、怒鳴って、取り繕ってばかりだったけれど、
手を伸ばして、体温を分かち合って、
ともに歩いていられたことを、
オレは、何よりも、愛おしく思ったんだ。

失いたくないんだと言ったら、お前は信じてくれるだろうか。


灰色のアスファルトが、小さく丸く、黒に染まる。
その玉の跡が、消えてはまた現れ、不連続な模様を描いていた。



「それなら、きっと、大丈夫だ」

(それなら……?)

「きっと、大丈夫」

(は? 大丈夫って? 何がだ)



オレが立ち止まると、三橋は少し先で立ち止まった。
その輪郭は夕陽に滲んで、影になった顔は不鮮明にぼやけて見えた。

相変わらず言っていることがわからない。
そして視界は歪んだままだ。
それでも思った。
良いじゃないか、わからなくたって。



「オレたち、は、大丈夫」
「意味、わかんねえ」
「大丈夫だ、まだ……」


暗示をかけるように三橋は繰り返す。

オレが何を言いたかったのか、三橋が何を言っているのか、
そもそもオレたちの会話は成立しているのか、
最後まで、オレにはわからなかったけれど

きっと、大丈夫なんだろう。
根拠もない三橋の言葉が馬鹿馬鹿しくて、オレは笑った。



「続けるよ、オレも」


オレがそう言うと、三橋も笑った。
でも、影になっていたからか、その笑顔は悲しげに見えた。

ゆっくりと自転車を押して、近づく。
目の前には三橋がいる。
消えたかと思えた姿を、今度は二度と消えないように灼きつけた。

かけがえのない時間は、もう戻ってこない。
いや、戻らないからこそ、かけがえのないものなのだろう。


「阿部君、泣き虫、だ」
「うるせえ、てめえに言えた義理かっ!」
「ひっ……」


オレたちは違いすぎるから、いつかどこかで、きっと道を違える。
でも、お前がそう問うなら、そう言うなら、
オレはいつだって肯定するしかない。

たとえそれが、終わりの始まりだとしても。


2015.6.22
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